2011年8月26日金曜日

マイヤ・プリセツカヤ著『闘う白鳥』を読む

表紙に映る一枚の写真。白鳥の舞い。凛とした静寂と緊張が目をとらえて離さない。
マイヤ・プリセツカヤは20世紀最高峰のロシアのバレリーナといわれる。跳躍の高さ、柔軟で大きく反る背中、技術の確かさ、カリスマ性、すべてが高く評価されている。体力の衰えが早く訪れるバレリーナの世界で70歳を過ぎてもなおプリマであり続け、その素晴らしい踊りは観客を魅了する。日本でも数多く公演をし、ドキュメンタリー番組などでも取り上げられているので、知っている人も多いだろう。そのマイヤ・プリセツカヤが3年かけてこの分厚い自伝を書き上げた。ロシア語のオリジナル版が刊行されたのは1994年のことである。

マイヤ・プリセツカヤは1925年生まれ。モスクワで芸術家を多く輩出するユダヤ人一家に生まれる。母親は無声映画の女優、父親は炭坑責任者として働いていた。当時ロシアは独裁者スターリンによる粛清の嵐が吹き荒れていた。1937年に逮捕された父親はその後処刑される。妊娠中の母親も「人民の敵」の妻として刑務所暮らしを強いられる。

バレエ学校を卒業してボリショイバレエ団に入ったのは1943年、まだ戦時中のこと。めきめき力をつけて、1947年にはバレリーナにとっての試金石とも言える『白鳥の湖』を踊る。 垂らした手首、白鳥の肘、反り返った頭、後ろに投げた胴体、不動のポーズ…これらの完璧なまでの美「プリセツカヤ・スタイル」は世界中に知れ渡り、大絶賛。一躍ときの人になる。ロシアを訪れた各国の国賓の前で何度『白鳥の湖』を披露したことだろう。30年の間に800回以上踊ったという。

彼女に向けられた高い賞賛とは裏腹に、劇場上層部の彼女への待遇はよいものとはいえなかった。ユダヤ人であったことが災いし、国外公演への同行が6年間も許されなかった。その間さまざまな陰謀や迫害にあい、もがき苦しみ闘う姿が描かれていく。KGB(ソビエトの情報機関・秘密警察)によって尾行、監視される様子や、叶わない国外公演への出演を求め、上司や文化大臣、大統領フルシチョフにさまざまなルートを使って嘆願する姿が胸に迫る。

マイヤ・プリセツカヤは言う。
「人間にとって何が必要なのか?
他人のことはわからない。だが、自分のことを言えば、奴隷にはなりたくない。
自分の運命に他人が土足で踏み込むことは許せない。
首輪をつけられるのは真っぴら。…
考えていることを包み隠さず話したい。
人に頭を下げたくないし、下げるつもりもない。そのために生まれてきたのではない…」

そんな中で出会った作曲家ロディオン・シチェドリンと結婚する。夫や友人、作家のルイ・アラゴンの助けもあり、6年の禁を解かれ、1959年ついに念願の海外公演を果たす。アメリカのメトロポリタン劇場を皮切りに、パリのオペラ座、イタリア、スペインと世界各地で大成功をおさめる。プリセツカヤはボリショイ劇場のプリマ・バレリーナとして世界を飛びまわる。多くの有名人との出会いやエピソードも興味深い。魔法のような舞台衣装をデザインしてくれたピエールカルダン、画家シャガール、ロバート・ケネディなどなど。

1964年にはレーニン賞が授与された。当時は、ソビエト国家で芸術家に与えられる最高の名誉ある賞だった。しかしその後も、妖艶さや官能がイデオロギーに反するとする政権側に挑む姿は感動的ですらある。こうしてアルベルト・アロンソの振り付けによる『カルメン組曲』、ローラン・プティによる『バラの死』、ワレンチン・プルチェクによる『アンナ・カレーニナ』モーリス・ベジャールによる『ボレロ』『イザドラ』などの新作が彼女のために生まれる。

波乱万丈の人生を振り返る。妬みや中傷に悩まされたとしても、誰かの旗の下に引き込もうとする者があったとしても、それが茨の道だと分かっていても、頑として自主性を貫きとおしてきた。そのためにあらゆる努力を惜しまずにやってきた。
そしてこう言う。
「力尽きて倒れることもなく、屈することもなく、耐え抜いてこれたという、自分に与えられた恵みに感謝している」と。

1993年、この本が書かれた当時はドイツに暮らしている。モスクワではペレストロイカが進行中であったが、ボリショイ・バレエ団は内紛により分裂し、マイヤ・プリセツカヤの席はもうなかった。しかし人生をかけてきたボリショイへの思いは尽きない。

涙を誘うほどに見る者の心を揺り動かすマイヤ・プリセツカヤの舞いは、気高く、哀しい。

文:長谷川京子

2011年8月21日日曜日

豊島区西池袋 撮影;2011.8.14

◎TOKYO PHOTO  ; NISHIIKEBUKURO  14.8.2011







 
目白から西武池袋線を跨いで西池袋の立教大学前に出る。
「蔦のからまる チャペルで 祈りを捧げた日 夢多かりし あの頃の 思い出を たどれば ~♪」と唄われた名曲「学生時代」は、青山大学の光景を歌った曲と聞いたことがあるが、立教大学もまさに蔦のからまる赤レンガ校舎がシンボルだ。正門を入って左手の図書館と正面の1号館がひときわ美しい。

夕方の構内では、数人の学生が中庭で語り合っている姿に“夢多かりし青春”を感じ微笑ましい。大学からひときわ高層のマンションが見える。38階建ての「ザ・タワーグランディア」というタワーマンション。上層階では天気のいい日は富士山も見えるらしい。駅から近いこともあり賃料は相当高そうだ。

駅西口周辺の歓楽街を歩く。ロマンス通り、中央通り、トキワ通りなどと名付けられた何本もの路地に居酒屋など飲食店が密集している。ロサ会館はロマンス通りの中心にあり、映画館のほか、飲食店、風俗店、漫画喫茶、スポーツ施設など様々な店舗が入居した老舗の娯楽施設。リニューアル後40年以上経ち建物は少々古くなっているが、多くの若者が出入りし健在ぶりを示している。

池袋駅西口のシンボルは「東武百貨店」である。東口に「西武百貨店」があることから、昔から「西に東武、東に西武」は池袋の不思議である。東武百貨店も年代を感じさせる建物になってきている。駅前のひまわりが、残暑厳しい夕刻の物憂さを感じさせ気だるそうに咲いていた。

photo ; 宇都宮 保
文;長谷川

2011年8月20日土曜日

豊島区目白 撮影;2011.8.14

◎TOKYO PHOTO  ; MEJIRO  14.8.2011









 
目白駅周辺は高田馬場や池袋のとなり駅でありながら落ち着いた雰囲気が漂うのは、駅に隣接して広い敷地と緑に囲まれた学び舎、学習院大学があるからだろう。昔から皇族が通う大学。土曜日で学習院の構内を見ることが出来ないのは残念だった。

駅を出て「ホテルメッツ目白」脇の道を下ったところに「切手の博物館」がある。ショウルームでは世界の切手6万種以上が展示されていて、その場で切手を買うこともできる。ミュージアムでは、「切手になった作曲家」展をやっていて、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンなどの音楽を優雅に聞きながら彼らの絵入り切手を鑑賞できる。「サイコロ型切手はり絵」という夏休みの子供向け特別展もやっていて、切手ではり絵という何とも贅沢な企画だ。大人も子供も時間を忘れて楽しめそうだ。

学習院とは反対側の目白通りは商店街になっていて賑わいがある。高層建物やスーパーなどはなく、店は皆こじんまりしている。目白通り沿いには銀杏並木の街路樹が続く。昔ながらの商店が軒を連ねるがが閉めてしまった店も目につく。新宿区下落合との区界になっているところを目白3丁目4丁目方面の住宅地に入っていくと、立派な塀に囲まれた一角があった。「徳川ビレッジ」と呼ばれ、敷地内は外国人用の高級賃貸住宅になっているという。その中に「徳川黎明会」という看板と緑色の荘厳な門。かつては尾張徳川家の邸宅で、今は尾張徳川家所蔵の美術品などの管理をしている財団法人。さすが徳川家の威光は平成の時代になっても、由緒ある緑溢れた空間を遺していた。

photo ; 宇都宮 保
文;長谷川

2011年8月16日火曜日

秋元 藍著『ハナコの首』を読む

『考える人』や『地獄の門』『カレーの市民』などの作品で知られ、近代彫刻の父と言われるロダンに『死の首・花子』という作品がある。かっと目をむき苦痛にゆがんだ、断末魔の形相をした女の頭部の像。モデルをつとめたのは、二十世紀初めにヨーロッパを舞台に活躍した人気女優マダム・ハナコという日本人女性。ほとんど知られてはいない。明治30年代、日本では女優というのはまだいなくて、女役は女形(おやま)が演じていた時代であり、ましてやヨーロッパで舞台女優として絶賛の嵐をあびていた女性がいたなどとは。

ハナコこと太田ひさは、明治元年愛知県生まれ。2歳のとき乳母とともに生家を出される。その後八百屋の養女となるが、養家の家業が傾くとドサ回りの芝居の子役として働き、13歳になると芸妓に身売りされる。幼いときから踊りに芝居にと芸事を叩き込まれたひさであるから、たちまち売れっ子芸妓になる。18歳の時、河川工事の請負師の40男に見初められ、いやいや結婚を承諾する。夫に仕え、雑事に追われ無我夢中で生きてきたひさであるが、それまでの生活に焦燥を覚え、若い男と駆け落ちをする。しかしその男にも裏切られ独りになる。

幼少から逆境のなかで耐えて耐えて生きてきた。そして30歳を過ぎて死ぬ気で渡ったヨーロッパである。身長138センチ、体重30キロ、足は八文(19,2センチ)というひさが「ヨーロッパの舞台における最も小さい女優・ハナコ」といわれ、フランス、イギリス、ロシア、ドイツなどヨーロッパ中の劇場で拍手喝采を浴びる。ハナコの何がそれほどヨーロッパの人々を惹き付けたのか。モスクワの俳優・演出家としてチェーホフの『かもめ』やゴーリギーの『どん底』などを上演したスタニスラフスキーはハナコの演技を見てこう賞賛する。
「一口にいうと、演技が芸術になる状態とは、俳優が役の魂を自分の魂としている状態ですよ。いいかえれば、俳優の創造とは役を生きることです。ハナコさんが、今、舞台でやっている『生娘』の死の場面は、誰にも真似のできないリアリティがあります…」「足腰のバネや筋肉、体全体がしなやかで柔らかく、音楽を奏でる巧みさは幼いときから鍛えあげられたものである…」と。

マルセイユでハナコの舞台を見たロダンは、彼女が斬られて死ぬときの死の演技に衝撃をうけ、創作意欲をかきたてられる。ハナコは忙しい芝居の合間をぬってロダンのアトリエに通いモデルをつとめる。何時間も苦しいポーズをとり続けるハナコをロダンは我が子のように可愛がり、14年間に多くのハナコの首をつくることになる。

ヨーロッパでの成功とロダンとの出会いは、まさに「辛抱の樹にはきっと花が咲く」というハナコの人生の花そのものであった。
ロダンによって永遠の命を吹き込まれた『ハナコの首』は新潟市美術館に展示されている。

○秋元 藍氏(あきもと あい)
福岡県北九州市生まれ。作家。彫刻家。主な著書に『眠られぬ夜の旅』『聖徳太子と法隆寺』『碑文 花の生涯』。他に共著多数。

文:長谷川京子

2011年8月11日木曜日

TOKYO COLLAGE(4)撮影2011.4-7

◎TOKYO PHOTO  ; TOKYO COLLAGE_4  7-4.2011

●TOKYO COLLAGE

荒川河川敷と隅田川河川敷で撮った写真の幾つかを組み合わせてみた。東京では珍しい広々とした空間が、河川敷に一輪咲いた花と不思議に調和していた。
photo ; 宇都宮 保

2011年8月10日水曜日

TOKYO COLLAGE(3)撮影2011.4-7

◎TOKYO PHOTO  ; TOKYO COLLAGE_3  7-4.2011

●TOKYO COLLAGE

上段:東京大学の学内で撮影した不思議な球体。それにレンガ造りの建物と赤門近くの新緑を配し、伝統、知、地球のイメージを託した。
下段:荒川河川敷の土手沿いを自転車で学校から帰宅する子どもたちと夕方の高速道路、下町の向こうにそびえるスカイツリーのコラージュ。下町っ子たちのたくましさと東京の未来を重ねた。
photo ; 宇都宮 保

2011年8月9日火曜日

山口 耀久著『北八ッ彷徨』を読む

図書館で『北八ッ彷徨』という美しい装丁の本を見つけた。
著者の山口 耀久氏は獨標登高会という山岳会を創立した人。この本はその山岳会会報や山岳雑誌に掲載された文章を随想集としてまとめたものである。

南八ヶ岳を動的な情熱的な山とすれば、北八ヶ岳は静的で瞑想的な山だという。
「北八ヶ岳には、鋭角の頂稜をいく、あの荒々しい興奮と緊張はない。原始の匂いのする樹海の広がり、森にかこまれた自然の庭のような小さな草原、針葉樹に被われたつつましい頂や、そこだけ岩塊を露出しているあかるい頂、山の斜面にできた天然の水溜りのような湖、そうして、その中にねむっているいくつかの伝説ーそれが北八ヶ岳だ。」

四季をとおして気のおけない仲間と行く北八ヶ岳山行が、いきいきとした表現で綴られる。日記には、まだ北八ヶ岳を訪れる人が少なかった昭和30年代、白駒池や雨池、双子池、亀甲池など湖の周辺や森の中を、黒百合平や麦草峠、大石峠、八丁平といった草原を、中山から丸山、茶臼山、縞枯山、横岳、双子山などの尾根を、強風に吹かれ、雨に打たれ、雪に見舞われ、時には踏跡が不明瞭な森の道をさまよいながら歩いた様子が描かれていて興味はつきない。

当時の北八ヶ岳は横断道路もなく、登山者も少なく、山小屋も少なく、静かな山歩きが楽しめた。著者が何度も好んで通った雨池は入るのに道はなく、勘をたよりに森をさまよい歩いた。たどりついた時はまるで恋人に出会ったときのような悦びに満ちている。

イラストレーターでエッセイストの沢野ひとしは登山家としても知られているが、彼は高校生の頃この本に触れ、八ヶ岳登山にのめりこんでいったという。『北八ッ彷徨』はひたすら北八ヶ岳讃歌、美しい一冊である。

○山口 耀久氏(やまぐち あきひさ)
大正15年、東京生まれ。昭和19年に獨標登高会を設立し、八ヶ岳、後立山不帰後・峰東壁、甲斐駒摩利支天中央壁、利尻岳西壁などに開拓の足跡を残す。昭和33年に串田孫一責任編集で創刊された山の文芸誌『アルプ』の編集委員を三百号の終刊まで務めた。
主な著書に『烟霞淡泊』『八ヶ岳挽歌』『頂への道』がある。

文:長谷川京子

2011年8月8日月曜日

TOKYO COLLAGE(2)撮影2011.4-7

◎TOKYO PHOTO  ; TOKYO COLLAGE2  7-4.2011

●TOKYO COLLAGE
夕暮れの荒川河川敷をわたる鉄橋と湾曲する首都高、それに隅田川を乱舞するユリカモメを組み合わせてみた。
photo ; 宇都宮 保

2011年8月7日日曜日

TOKYO COLLAGE(1)撮影2011.4-7

◎TOKYO PHOTO  ; TOKYO COLLAGE  7-4.2011


●TOKYO COLLAGE

東京で撮影してきた実際の要素を様々に組み合わせ特殊効果を狙ってみた。
半分は遊びの感覚で、半分は撮影者の心象風景として。

photo ; 宇都宮 保

2011年8月6日土曜日

新宿区百人町 撮影;2011.8.3

◎TOKYO PHOTO  ; HYAKUNINTYO  3.8.2011











 
新宿区百人町は一丁目から四丁目まであり、JR山手線の新大久保駅と総武線の大久保駅周辺の地域にあたる。新大久保駅周辺は関東最大のコリア・タウンといわれている。韓流スターのグッズを売る店や韓国料理店、韓国スーパーやエステ店がひしめきあい女性達でにぎわっている。歩いている人がかわす言葉も「アンニョンハセヨ」??

山手線の車内からこの周辺を見ると、片側はチューインガムのロッテ工場の大きな看板、反対側は日雇い労働者の古い簡易宿泊所が目立ったものだが、建物を改築して格安ビジネスホテルやラブホテルに業態変更した宿も多いということだ。

新大久保駅の高架をくぐり、大久保駅方面に向かう。路地に入ると韓国ばかりでなく、タイや中国、ミャンマー、ベトナムなどの店もあり多国籍地帯だ。日本語学校や外国語学校などもあり、裏通りで商品の出し入れの仕事をしている人も外国人。韓国語で案内している不動産業者などなど、どこの国にいるのか見紛うばかりだ。

photo ; 宇都宮 保
文;長谷川

2011年8月5日金曜日

TOKYO点描(6)撮影2011.4-7

◎TOKYO PHOTO  ;  7-4.6.2011









●雑感

カメラを片手に東京の街を撮るようになって4ヶ月。この間、出来るだけ時間をかけて歩くようにしているが、車を使った移動では見過ぎしてしまうだろう風景に出会うとうれしくなる。東日本大震災後、日本人の心の風景が変わろうとしているのを感じるが、普段は見過ごしてしまうような変わらない日常こそ、本当は大切なものなのかもしれない。

photo ; 宇都宮 保

2011年8月3日水曜日

新宿区高田馬場 撮影;2011.7.31

◎TOKYO PHOTO  ; TAKADANOBABA  31.7.2011







 
高田馬場駅前に出る。BIG BOXとその前の広場、交差点のにぎわい、線路のガード下やガード脇の飲み屋街……都心部の駅前が次々に姿を変えていくなかで、ここはあまり変化の印象はない。

駅前には学生ローンの派手な看板が掲げられ、学生の街らしく低価格の看板を下げた飲食店や居酒屋が並ぶ。なかでもラーメン店が多い。高田馬場は都内でも有数のラーメン激戦区らしい。

早稲田通りから入る路地を歩いてみると古い木造アパートがまだ結構ある。小綺麗なワンルームマンションが増えているところと比べ、畳敷きの室内は空室率が高いかもしれない。二本だて映画が安く見れる名画座、早稲田松竹は高田馬場から早稲田大学方面に歩いて数分のところ。館内では上映時間が近づいているのか、大勢の人が列をつくっていた。

photo ; 宇都宮 保
文;長谷川